モンゴルと日本の関係は、外交においても一般の人々の付き合いでもアジア一仲良くしてきたのは周知のとおりです。JUGAMO主催の講演会にて、日本大使館の林伸一郎参事官にその背景にある日本の外交におけるモンゴルの位置について、そしてモンゴルの若い世代に期待すること、日本留学組の果たすべき責任について個人の立場からお話をいただきました。

ここのコラムでも触れましたが、モンゴル初の民主主義的憲法が成立したのが1992年。日本で細川内閣が発足し、55年体制が崩壊したのが1993年。つまり、官僚中心の政策から政治家中心の政策に移行する時期とモンゴルが自由主義、市場経済へ移行する時期が重なったことを意味しています。

それ以前にも冷戦の終焉を受けて、日本はモンゴルの若い民主主義の背中を押す役割を担ったといいます。ベーカー米国国務長官が早くも1990年8月にモンゴルを訪れていますが,同長官が対モンゴル支援国会合の開催をに対して働きかけたという興味深い経緯を聞かせてもらいました。

それからほぼ30年、小泉純一郎、安部晋三といった国民の意思を代表する政治家、総理大臣の外交を通じてモンゴルと日本の付き合いは戦略的パートナシップまで進展しました。これには、北朝鮮問題や国際捕鯨をはじめとする国際問題において互恵に努めたモンゴルの貢献もあったが、基本的にモンゴルが北東アジアのど真ん中にできた若い民主主義国家としての恩恵を享受してきました。

日本はその歩みを28年間応援してきた国として、モンゴルの上海協力機構(SCO)への加盟が話題にされたときはとまどいを覚えたのではないでしょうか。SCOのロゴは以下のようになっていますが、2大国に挟まれて青く光っているのがモンゴルです。欧州連合各国に囲まれた緑色のスイスみたいに。

林参事官は、若者や留学組に対して青く輝くモンゴルの民主主義を大事にするよう、地域の安定や安全保障においてどれだけ重要な役割を果たしているか認識するよう、プライドをもつように話しました。モンゴルは鉱山会社ではない。地域の安全保障において機能的な役割を果たしている民主主義国です。

そのモンゴルに、安部総理は2012年12月に就任してからわずか3ヶ月後に訪問して、これまで3回の公式訪問を果たしています。それに対して、現役のモンゴル大統領と首相がこの1年半にわたって来日しておらず、波乱万丈の国内政治に奮闘していた末にフレルスフ首相が来日を果たしました(汗)。

「日本はモンゴルを胴、金の山としてみていません。苦しい時期でも自由を選んでがんばってきたモンゴルは格好いい!今、諦めるな。」

今年の6月には諦めかけました。大統領、そして鉱山大臣、それに外務大臣までSCOへの本格的な加盟の可能性について何らかの形で言及しました。悪夢ではない、実際起きたことです。

それに対する国民の反応は偉かった。モンゴル国民を非難しがちなコラムニストの私にとってモンゴル人を初めてぐらい誇りに思いました。3人に1人が貧困生活に陥っているという数字が出ているモンゴル社会。しかし、SCO加盟への本格化の可能性が出てくると、その代償や経済的な価値について聞こうともしません。銀行や金融機関、大財産を所有しつつ中小企業開発基金から金利3%の資金を借りるような政治家よりも貧乏のモンゴル人にプライドがある。どんなに小国と見えても21世紀のモンゴル人には帝国の名残、チンギスハンの子孫としての自負があるのだなと思いました。6月当時は、コラムニストや元外交官などからなる市民グループが自発的にできて経験豊かな外交官や評論家の反対の声を広めたり、ポスターを作ったり全力で抵抗しました。幸い、いったんその話が沈んでいますが、加盟オファーはテーブルの上においたままかもしれません。なお、ポジティブに見れば少なくともSCO加盟をめぐるこのケースのように政策やイデオロギーの選択は国民の自由意志に基づいて議論された上で決めるというのが青く輝いているモンゴルの強みでもあります。

大統領制への移行、憲法改正の有無、国会解散、裁判の独立性。さまざまな試練に強いられるモンゴルの民主主義。ここからの道が長いと思われますが、普通のモンゴル人のプライド、そしてそれを反映した民主主義的意思決定がその守備的な役割を演じていくことでしょう